パートナーが逝ってしまった

2023年10月10日、最愛で最高のパートナーだった妻の彩子が逝ってしまいました。結婚して25年、夫婦としてはこれから円熟していくはずでした。言葉にしないと記憶が風化しそうで、彼女との生活・仕事のことを書き記していきます。本当に極私的な内容です。

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開業間際のこと

妻は中州で飲食店を経営しておりました。経営は安定しているようでした。一方私は駆け出しの診断士。仕事はほぼゼロに等しい。あわよくば家内に食べさせてもらおうと考えていました。ところが結婚を機に、店を閉めてしまいました…。まぁ、潔いこと。

結果、佐々木家の生活は私の双肩にかかることになりました。あたりまえといえば当たり前ですがね。人一倍甘い考えで、弱い私のことをよく知っていたんでしょうね。見事に退路を断ってくれました。とはいえ、そこから急に仕事が増えるわけもありません。

一度、売上3万円という月がありまして、その時は「今月はこれで終わり?」と尋ねてきました。ただ、それ以上のことは尋ねることもなく、自分の貯金を崩したんでしょうか。淡々とやり過ごしてました。

私、妻が亡くなって、村田英雄の「夫婦春秋」が涙なくして聞けません。
「愚痴も涙もこぼさずに貧乏おはこと笑ってた」
「それが夫婦と軽くはいうが、俺とお前で苦労した」

本当に、創業時の苦労は二人だけが共有しているんでしょうね。

家と仕事の役割分担

妻は私の仕事に関しては何も口出ししてこなかったですね。その代わり、家のことは妻の担当。私はほぼ口出しはできません。仕事に関しては、詩人調達と資金繰りは私の担当。帳簿付けを含め資金管理は家内の担当でした。

もともと自分で商売していたからでしょうか。まぁ、細かい。社長からすれば頼りになる資金管理者でした。そのかわり融通も利きませんが。

通帳が家計簿代わり。私のようにカードでおろして、そのままにしている人間を信じられないようでした。こまめに記帳に言っていました。

口座をいくつも分けて、貯金するのが好きでした。これは私のスーツの購入資金。これは私の靴の購入資金。などなど。私の物を買うのが多かったなぁ。

家内は客商売をしていたので、いろんな人を見てきました。
ですから私には「義理は欠くな」「身なりはきちんとしとけ」「仕事で忙しい忙しいと忙しぶりっ子するな」とよく私にはいっていました。今もそれは身についております。
知り合いのお子さんにの誕生日などには、親御さんにあてて、現金を包んでおりました。そんなとき、必ず私に「●●ちゃんに誕生日プレゼント渡していい?」と尋ねてきました。
私が仕事して頂戴した報酬を仇やおろそかに使わないという姿勢を貫いておりました。そんな姿勢も大好きでした。

二人の趣味

われわれには子供がいないので二人の時間がとても大切でした。妻も私もお酒とおいしいものが大好き。出張帰り、博多駅で待ち合わせして、二人でよく出かけました。彼女は左利き、私は右利き。腕がぶつからないように、彼女は私の左側に座ります。彼女は左手で箸をだし、私は右手で箸を出すので、まるで蟹のようでした。

飲みながら今日の仕事の話、いろんなニュースの話をするのは楽しかった。
彼女も「あんたと飲む酒が一番よか」といってました。もちろん私もそうでしたよ。

当人は否定してましたが、料理も上手でした。毎年暮れには市場に買い出しに行き、おせちを作ってました。大みそかはおせちの切れっぱしで、一杯飲みながら年越し。元日は母親を招いて、おせちとお酒でお祝いしていました。

彼女が作ってくれた最後の「おせち」

私の母親とも相性がよく、母も「彩子さん、彩子さん」と頼りにしていました。

コロナ前はよく、旅行に行きました。

行先に関しては私が工程表をつくり、予算をはじき出して、妻に決裁をもらうという感じでした。
国内・国外を問わずどこに行くのも、二人なら楽しかったです。

私が工程表をつくり、妻が決裁
西安の城塞にて。楽しかったね。

妻が60歳になる年にはディズニークルーズに行こうねと話してました。
妻がテレビでクルーズの様子をテレビで見て、アラスカの目的地にマフラーをしたドナルドが迎えに来ているのがとてもかわいいといっていました。

妻が60歳になる年が2023年。今年でした。

「がん」はわれわれのファイティングポーズを何度も崩す

2022年2月に二人でかかりつけ医のところで胃カメラの検査をしました。そこで、胃がんが発見されました。とはいえ、「胃がんは切れば治るんではないか」と軽く考えていました。九大病院で手術を行いました。手術に立ち会うと開始から1時間くらいして、執刀医から呼び出しがあり、腹膜に転移しているので手術できないと告げられました。目の前が真っ暗になりました。7-8時間かかるという手術が1時間ほどで終了しました。
担架で運ばれ来る妻は、もうろうとした意識の中で「今何時?」と聞いてきました。嘘をつくわけにはいかないので、正直な時間を告げました。ちょっと妻はがっかりした表情をしたように思います。

田宮二郎版の白い巨塔にも同じようなシーンがありました。この時は、医者が時計の時間を進めて財前教授をだましていました。

手術できないので薬物治療です。
最初の薬のとき、「この薬は髪の毛が抜けない」と聞いて、妻は喜んでました。半年くらいたったとき、肝臓にも転移しているということを告げられました。

薬が変わりました。この薬は「髪の毛が抜ける」ということでした。おしゃれで、髪の毛にも自信があった妻は多少なりともショックなようでした。髪の毛が抜けはじめ、頭皮が見えだしたとき、彼女が涙ぐみながら、頭をなでて撫でてといいに来ました。私は彼女を抱きしめ、撫でさすったことを覚えています。ただ、何と声をかけたかは今となっては覚えていません。

この2番目の薬は、髪の毛を抜けさせただけで、ほとんど効かずリンパ等に転移していきました。このころから腹水がたまりだしました。

主治医の紹介で、腹水を抜いて栄養分を戻す手術ができるところを紹介していただきました。腹水を抜くと少し楽になったようで、このころはまだ、一緒に外食に行くこともできました。

三番目の薬も思わしくなく、主治医から治験に参加しませんかというお誘いがありました。言葉選ばずにいううと、新しい治療の実験台です。ただ、薬が効かない以上、この勧めは非常にうれしかった。検査をし、治験参加OKということで、1カ月入院しました。結果、治験と体が合わなかったのでしょうか。一回目の治験中に嘔吐して中止。2回目は以降はナトリウム不足などで治験ができない状態です。彼女はストレスから帯状疱疹が出てしまいました。
主治医から呼び出しがあり、治験も効果ないということで、中止。週末緩和ケアの勧めがありました。

家内はまだ治療に期待を持っており、私もそうでした。ただ、病状はそれを許してくれませんでした。

がんに対抗するために、われわれは何度ともなくファイティングポーズをとりました。そして、がんの症状はその都度われわれの期待をあざ笑うように上回っていきます。彼女にとっては体調もきつかったでしょうが、こういうメンタルもきつかったと思います。もちろん横にいる私もメンタルがやられました。

その後、再入院はどうしてもしたくないという彼女の要望に応え、訪問診療を選択し、介護しながら家で彼女を看取りました。これが私ができた唯一の恩返しのような気もします。妻が亡くなったとき、訪問看護の看護師さんが、「奥様と写真を撮っておかれませんか」と私に言いました。

妙なこと言うなぁと思いながら、妻の亡骸と一緒に写真を撮りました。
そこには痩せた妻の顔が映っています。
その顔を見ると、瞬時にあの時の看病のことが思い出されます。そして「よう頑張ったよ。もう頑張らんでいいよ」という言葉が出てきます。
あの看護師さんの一言に従って、写真を撮ってよかったと思います。

彼女がいなくなって。これからの人生。

彼女がいなくなって、改めて家のことを任せきりにしていたことを思い知らされました。
どういう保険に加入し、通帳がどこにあって、残高がどれくらいあるかなど、まったくわかりません。
お互い信頼しあっていても、やはり、大切なことは書面にしておくエンディングノートの大切さを思い知りました。
とはいえもとは他人ですから、見せたくないものもあるかもしれない。そんな時に信頼できる第三者に預けるようなサービスがあれあいいなぁと思いました。そういうサービスがあるかもしれませんけど。

テレビのシーンじゃありませんが、遺影に語り掛けますね。
「出張いってくるよ」とか「研修うまくいったよ」とか。答えはもちろんかえってきませんがね。

われわれはLINEではなく、携帯のショートメッセージでやり取りをしていました。
彼女が時折おくってくるユーモアあふれるGIFや絵文字が大好きでした。

だけど、メッセージのやり取りをしなくなると、当然、名前の表示が下がっていきます。
それがいやなので、「今から帰る」とか「出張先についた」などメッセージを送ります。そうすると私のショートメッセージの履歴に彼女の名前が一番上に現れます。

未練がましいよなぁ。そりゃぁ、未練あるもん。

私が今63歳。自分では元気と思っていても、世間的にはおじいちゃんです。だけど平均余命から考えてあと20年。
1人で暮らしていく自信はないし、1人はイヤだよぅ。

うれしいとき、悔しいとき、一緒に分かち合いたいじゃないか。
彩子さん、あんたベストパートナーだったよ。

俺はあんたと結婚出来て幸せだった。あなたはどうだったんだろう。
こんなこと生きてるときには聞けないね。

勝手な思いなんだけど、もし、新しいパートナーが私にできたとしても、彼女は許してくれるんじゃないかと思っている。
彩子さんは、常に私が生きやすいように考えてくれていた。
苦笑いしながら「しょうがないねぇ」といってくれる気がする。そうじゃなかったら、俺が向こうに行ったときに謝るさ。

あんたは、自分を蔑ろにされたり、軽く扱われることが大嫌いだった。
俺はそれはわかってるんだ。
だから、この先、何があっても、ずっとリスペクトの気持ちを持って暮らしていくよ。それはもし新しいパートナーができてもおんなじさ。

本当に、一緒になってくれてありがとう。楽しかったよ。合掌。